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第6号(2006年12月)資料探検隊 Vol.6
モルフィーちゃん
南米に住む青い蝶の妖精、モルフィーちゃん。 海外移住資料館のあれこれを、みなさんと一緒にお勉強します。 どうぞよろしくね!!

 

南米のオキナワ村
  〜海を渡ったウチナーンチュたち〜

地球をぐるりとまわった反対側、南米のボリビアに、「オキナワ」という名前の村があります。1950年代から沖縄県出身の移住者が入植し、開拓したコロニア・オキナワ。そこには、まるで沖縄そのものを訪れたような、ゆったりした温かい空気と時間が流れています。
 このたび、資料館のネットワーク展示システムを使って、このオキナワ村にある「オキナワボリビア歴史資料館」の展示資料が、世界中のどこからでも閲覧できるようになりました。南米のオキナワ村で、移住者たちはどのように独自の文化を守り、生活してきたのでしょうか。オープンしたばかりのウェブ資料館をのぞいてみましょう!!
URL: http://dms-okinawabolivia.eg.jomm.jp/

三線と締太鼓
手作り三線(左) :1956年ごろに作られたもので、素材となる木や蛇皮も移住者が自ら採ったもので作られている。移住者たちは、故郷の沖縄を思い浮かべながら毎晩三線を弾いた(資料提供:長山 哲さん)
締太鼓(右): 運動会などの行事を盛り上げるために使った
※オキナワボリビア歴史資料館所蔵の写真より

夢を求めて、南米へ

常設展示
各都道府県からの移住者数を表した日本地図(常設展示より)

 海外移住資料館の入り口を入ってすぐ、右に曲がると、壁に大きな日本地図のオブジェが展示してあります。どの都道府県からどのくらいの数の移住者が送り出されたのかを表すグラフになっているこの地図を見ると、沖縄県から海外へ移住した人の数がとても多いことに気づくでしょう。
 琉球王朝の時代から、海を通じて海外との深いつながりを持っていた沖縄の人々にとって、もともと海外への移住は親しみやすいものだったのかもしれません。戦前、ボリビアへの移住が始まるよりも前にペルーに移住した人のなかに、アマゾン地域の天然ゴム景気で一山あてようとペルーからアンデス山脈を越えてボリビアに移り住んできた「ペルー下り」と呼ばれる人々がいましたが、第2次世界大戦後の貧しく苦しかった時代、沖縄県出身の「ペルー下り」の人たちが、厳しい状況にある故郷の人々を救おうと呼びかけたことにはじまり、当時の琉球政府によってボリビアに集団移住地がつくられると、1950年代から60年代にかけて、大勢の人が沖縄からボリビアへと移住しました。
 気候風土の違いや厳しい開拓生活のなかで、原因不明の熱病により15人もの犠牲者を出した「うるま病」や、度重なる水害などにより、移住地を転々としなければならなかった辛く厳しい時代を経て、いま、コロニア・オキナワは、ボリビア屈指の穀倉地帯として発展を遂げました。ボリビアの農業をリードし、流通ルートを切り開いて経済を活性化させるなど、ボリビアにとって、なくてはならない存在となっているのです。

パスポート
1954年、沖縄を統治していた アメリカ民政府によって発行された 移住者のパスポート。オキナワ移住地が 日本政府に移管されたのは1960年で、 それ以前は、沖縄県民は日本国民として ではなく、「琉球居住者」として海外渡航 しなければならなかった。(オキナワボリビア歴史資料館ネットワーク展示より)
移住地中心部 現在のようす
入植初期(1957年頃)のオキナワ移住地中心部
(オキナワボリビア歴史資料館ネットワーク展示より)
  現在のオキナワ移住地の様子

モルフィーちゃん
 コロニア・オキナワには、日系人だけでなくボリビア各地から仕事を求めてたくさんの人が移り住んできているのよ。1998年には、ボリビア政府によってコロニア・オキナワが正式な行政区として認められ、ボリビアの公式地図にも「OKINAWA」の文字が記されているんですって!
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 戦争の歴史を物語る

 2004年、オキナワ移住地への入植50周年を記念してコロニア・オキナワに開設された「オキナワボリビア歴史資料館」には、移住者の歩んできた歴史や日々の生活をうかがい知ることのできる数々の資料が展示されています。なかでも目を引くのが、移住者が沖縄からボリビアに渡ってくるときに持ち込んだ生活用品。それらの多くに、戦時下の沖縄に投下された不発弾を利用して作った味噌樽や、戦闘機の残がいを溶かして再利用したフライパンなどが含まれているのです。当時、当たり前のように使われていたこれらの日用品は、貧しかった時代のつつましい生活や、戦争の暗く重たい歴史を静かに物語っています。

食料入れ フライパン
戦時中に投下された不発弾の火薬を取り出し、中に味噌などを詰めて移住する時に食料入れとして持って来た。   戦闘機の残骸を溶かして作られたフライパン。当時の日常品のほとんどがこういったジュラルミンで出来ていた。
鍋   灰皿
こちらも、不発弾の火薬を取り出して半分に切り、鍋として使用していたもので、「爆弾ナービ(鍋)」と呼ばれた。戦後の過酷な暮らしを生き延びるための知恵がある。   大砲の薬莢を利用して作られた灰皿。
(すべてオキナワボリビア歴史資料館ネットワーク展示より)

 ボリビアにはもうひとつ、サンファン移住地という日本人の集団移住地があるのよ。オキナワとサンファン、ボリビアの2つの集団移住地は、ともにボリビアの模範的な農村地域として現地の人々から讃えられ、ボリビアの農業、経済の発展に大きく貢献しているのよ。
モルフィーちゃん

どこにいても沖縄の心を

スーパーの野菜
エイサー太鼓とバチ(常設展示より)

  移住者が持っていった荷物のなかには、必ずといっていいほど三線(沖縄三味線)があったといいます。嬉しいとき、辛いとき、悲しいとき、どんなときも「同郷」という強い連帯感で支えあい、故郷の音楽を奏で、歌い、踊り、人生のさまざまな山を乗り越えてきたのです。いまでもコロニア・オキナワでは、地域のイベントなどで必ずエイサーが踊られます。手作りの三線などからも、移住者が故郷の伝統や文化をどれだけ大切にしてきたのかがうかがわれます。
 ボリビアのオキナワ村だけでなく、いま、世界各地に沖縄から移住した人々が暮らしています。沖縄県では、そんな海外に住むウチナーンチュ(沖縄人)たちが5年に1度集まり、それぞれの国での活躍やウチナーンチュとしてのアイデンティティ、連携について話し合う「世界のウチナーンチュ大会」というイベントを開催しています。世界のどこにいようとも、ウチナーンチュとしての誇りを失わず、文化を守り、故郷との強い絆で結びつく彼らのなかには、「心の故郷」がしっかりと存在しているのでしょう。

移住資料ネットワーク化プロジェクト進行中!

当資料館では、日本国内および世界各国の日本人の海外移住をテーマにした博物館・資料館等と連携し、当館がそれらのハブ機能を持つプロジェクトを進めています。このプロジェクトでは、当館の情報システムを活用し、写真・資料のデジタル・アーカイブおよびインターネット上の資料展示や資料検索等を実現することで、相互の移住資料が有効活用されるネットワークをめざしています。今回新しく開設されたオキナワボリビア歴史資料館、ぜひ1度訪れてみてください!

オキナワボリビア歴史資料館 
http://dms-okinawabolivia.eg.jomm.jp/
広島市デジタル移民博物館
http://dms-hiroshima.eg.jomm.jp/
 
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